【人事担当者を元気にするコラム Vol.55】上を向いて歩こう♪~パイオニアの素晴らしさ~

大手食品メーカーグループ会社 代表取締役社長山本実之

2024.05.31

1995年6月26日、私はアメリカ、ロサンゼルスのドジャー・スタジアムにいました。その日の対戦カードは、ロサンゼルス・ドジャース対サンフランシスコ・ジャイアンツです。あのメジャーリーグ歴代1位となる通算762本塁打の記録を持つ、バリー・ボンズがジャイアンツの主砲として活躍しているころのことです。

初めての米国出張。サンフランシスコからロサンゼルスへ行ったその日が、なんとあの野茂英雄選手が先発登板する日にあたっていました。
「野茂英雄」、まさに日本人のメジャーリーグへの道を切り拓いたパイオニアです。まだ、イチロー選手も松井秀喜選手もメジャーには行っていないころ、たった一人で米国メジャーリーグに挑戦した男がいたのです。名前の通り「英雄」、まさにヒーローだと思います。もし、あの時の野茂選手の挑戦がなければ、イチロー選手や松井選手、そして今の大谷翔平選手の活躍はありえないといっても過言ではありません。

野茂選手が米国行きを決めたとき、今では考えられないことですが、メジャーリーグは未曾有のストライキ中でした。いつ再開されるかも全くわからないなか、それでも野茂選手は米国へ旅立っていったのです。
当時の日本野球界には、日本人選手を喜んでメジャーリーグへとおくりだすといった考えも、その体制も全くありませんでした。野茂選手に対してなんといったか、そしてどんな制度を敷いたかご存知でしょうか?
その風潮はひどいもので、「野茂はもう日本球界へは戻らせない」「野茂はわがまま」と、まるで裏切り者を扱うかのような対応でした。
マスコミもこぞって、「野茂はメジャーでは通用しない」「あのフォークは通じない」と報じるなど、それはそれは、すごい酷評でした。
そして米国挑戦に失敗したとしても、現実的には日本球界へは戻れない制度にされていました。まさに日本野球界を追放されたような状況のなか、野茂選手は米国に渡っていきました。その時の野茂選手は、まさに日本の侍そのもののように思います。まさに退路を断つときに使われるたとえ、「バーニング・ザ・ブリッジ」そのものです。
この言葉は、英国のあるリーダーが戦争中に、島から島へ伝って敵陣に入ったとき、帰りの橋を焼き落としたことが由来です。まさに戦争に勝たない限り、どこにもいけない、覚悟をきめる瞬間です。島に渡ったときに、もう勝って戻るしかないという思いを込めて命令したのです。それこそが「橋を焼け」、まさに「バーニング・ザ・ブリッジ」です。決して戻ることのできない、まさに退路をたっての出陣のたとえで、よく使われます。

ドジャー・スタジアムの光景も今のスタジアムの風景とは全く異なり、日本人の観客はほとんどいませんでした。まさに米国人のみのスタジアムといってもいいでしょう。
今ではどのように書かれているか、わかりませんが、チケット売り場に張り紙が張られていて、こう書かれていました。「Today’s Show」と。
その時、気づきました。メジャーリーグは「Game」ではなく「Show」なんだと。もしかすると、これが「ベースボール」と「野球」の根本の違いなのかもしれません。
選手が本気で取り組みながらも、それはエンターテイメントの一つであるのだと感じました。その感覚でいくと、プレーの一つひとつの反応が異なるのもよくわかります。メジャー選手のふるまいにもあらわれているかもしれません。
送りバントが少ないのもそのせいなのでしょう。セーフティバントと根本が異なりますから。勝ちは目指すものの、ただ勝てばいいという世界でもないのかもしれませんね。

野茂選手の登板のことは、その当日にロサンゼルスの輸入業者から知らされました。仕事が終わったら「ドジャース戦、見に行く?」と言われ、野球好きの私が断ろうはずもなく、二つ返事で答えると、夕暮れせまるドジャー・スタジアムへと向かいました。初めて観戦するメジャーリーグを前に、まさに少年のようにわくわくしたことを覚えています。
急遽ということで、前売り券を購入していたわけではなく、当日券を購入。空いている席は、最も見にくいといわれている外野のポールわきだけ。とっても見にくい席で残念という想いと、初めて見るメジャーリーグの試合でわくわくどきどきの気持ちが入り混じる、不思議な感覚でいました。

イメージ:ドジャースタジアム
ポールわきで見ていた私でしたが、せっかくドジャー・スタジアムに来ているのにずーっとこんな遠いところだけで終わるのは残念だなと思い始めました。そこで記念に写真を撮ろうと考えバックネット裏へ。通路を進んで、前から6列目くらいのところで写真を撮っていると、その横の米国人が「君は日本人か?」「席はあるのか?」と問いかけてきました。
「いや、ポール脇で、あまりに遠い席なので記念に写真を撮りに来たんだ」と伝えると、その米国人は「俺のとなりにくるか?」と言ってくれたのです。
話を聞くと、友人が急遽こられなくなってしまい、席が空いているんだというのです。私は「Really ?」と聞き返すと、2席あいているというので、「友人をつれてきていいか?」というと、「もちろん!!」という答え。急いでポール脇の友人を呼びにいき、その米国人の横で観戦することになりました。
そこはポール脇の席とは別世界、ネット裏の前から6列目。すごい迫力。野茂選手の投球をまさに目の前で見られることになりました。とっても感激しながらみていると、なんと、前の席の米国人が双眼鏡をもっていて、「双眼鏡を使うか?」と言ってくれました。特に野茂選手の投球中にはずっと貸してくれました。前の人に返すと、今度は後部座席の人が、「日本人だよな? 野茂を見たいんだよな?」といいながら、双眼鏡を貸してくれました。

米国人から日本人の私たちに、まるで双眼鏡のバトンリレーのような状況が起きていました。これは優しさのバトンでもありました。感謝の想いで胸が熱くなったことを思い出します。なんて親切、なんてオープンな性格。びっくりです。
たまたま、オープンマインドな米国人にあたったのかもしれませんが、このオープンマインドは学ぶべきことがとても多いと感じます。

そんな双眼鏡の貸し借りの中で、一つの想いがうかびました。もし、私が逆の立場だったら、同じことができるだろうか? と。
友人がこなかったとはいえ、3人がけのシートに1人、ゆったりと座りながら観戦している状態です。日本人の観客が珍しいとはいえ、自分が見る環境が決してよくなるわけではないのに、わざわざ声をかけて「ここに座るか?」という心は、とても素晴らしいと感じます。
もし自分に置き換えてみるならば、場所は東京ドーム。ネット裏の最高の座席に3人がけで、ゆったりと観戦している。ピッチャーは、ここ日本では珍しいメキシコ人の選手。観戦しているとメキシコ人らしい若者が、一生懸命、そのピッチャーの写真を撮っている。そんな場面で、見ず知らずのメキシコ人に対して、「となりにくる? メキシコ人だよね?」という問いかけをするのが今回の出来事です。私には決していえないなあと思います。今でもそのオープンマインドに感動を覚えます。

そんななか、米国で「Sukiyaki song」といわれている坂本九さんの「上を向いて歩こう」の音楽にあわせて、野茂選手がマウンドに上がっていきました。
本当に堂々と、なにも臆することなく、立ち向かっていく姿、まさに侍そのものに感じていました。たった一人でのメジャー挑戦、まさにパイオニアです。
外国人ばかりのドジャー・スタジアムで、ゆっくりと、そして堂々と歩いていく姿にとても感動したことを昨日のことのように覚えています。たった一人でマウンドにむかう姿勢、同じ日本人として、とても誇りに思ったことを覚えています。
その代名詞ともなったピッチングフォームのトルネード投法、とても特殊な投げ方は当時の近鉄バッファローズの仰木彬監督だからこそ、あのフォームを継続できたと思うし、継続したからこそのメジャー入りでもあったことと思います。
あのイチローを育てたのも、仰木監督。これは偶然とはいえないように思います。

当時、私は34歳。海外事業部に所属しながら、製品の輸出担当者として、シンガポール製品を米国へと輸出していました。会社のなかでは初めてブローカーを直接訪ね、いろいろな要望を聞きながら、ビジネスを展開していた自分の姿が、目の前のパイオニアの姿と重なり合った感覚があったことも思い出します。30代でまさに仕事で油がのりきっていた時代だと感じています。

イメージ:海外で活躍するビジネスマン
一期一会という言葉があります。たとえば、ドジャー・スタジアムで私たちに席を譲ってくれた米国人にとっては、私たちが初めて会う日本人かもしれません。
ある人にとってその人は、その民族の人間として出会うたった一人の人物なのかもしれない。そのたった一人が、その国のイメージを決めてしまうこともあると思います。ある面、その一人がその国のすべてになってしまうということです。
私たちは、一人ひとりが、国を代表しているような意識をもって、のびやかに生活していく必要があると思います。「一時が万事」、「一人がすべて」まさにそんな意識です。

またドジャー・スタジアムで気づいたことの一つに、国歌の流れた瞬間の雰囲気があげられます。それこそ、ピーナッツ片手にちゃらんぽらんしていたようにみえた米国人たちが、国歌が流れる瞬間、全員が起立し、そして胸に手を当てての静寂。びっくりしました。日本人以上に国家、国に対しての敬意をもっているんだなあと思いました。これも教育そのものなのだと思います。
7回の表がおわったタイミングで「私を野球場につれてって(Take Me Out to the Ball Game)」の曲が流れると、みんなが笑顔いっぱいにこの歌を歌っている。家族一体の姿に、まさにボールパークだなあと感じた瞬間でもあります。
いまや日本でもなじみのあるメロディになりましたが、そのころの私にはよくわからず、みんなが笑顔でなにかを歌っているなあという感じでした。

そして、あの日、野茂選手とバッテリーを組んでいたのが、その年のルーキーであり、のちのスーパースター、マイク・ピアッツァ捕手です。
時が流れ2023年のWBC準々決勝、日本が戦ったイタリアチームの監督こそがこのピアッツア選手だったということにも、なにか不思議な縁を感じます。

パイオニアとして活躍した「野茂英雄」の存在は、私たちに勇気を与えてくれたことと感じています。
パイオニア精神をしっかりもち、人生、上をむいて歩こう。


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Profile
山本実之
大手食品メーカーに入社。20代は商社部門で食品原料の輸入販売を担当。30代は食料海外事業部に所属し、シンガポール・プロジェクトをはじめ米国・香港等へ製品輸出を担当し、出張した国は32ヵ国にのぼる。さらに英国との合弁会社にて営業企画管理部長を担当(上司がイギリス人、部下はアメリカ人)。
40代は新規事業立ち上げのリーダーを担当し、その後、営業部長に。40代後半からは研修部長として、人財開発を担当。のちにグループの関連会社の代表取締役社長に就任し、現在に至る。
資格としては、GCDF-Japanキャリアカウンセラー、キャリアコンサルタント(国家資格)、(財)生涯学習開発財団認定プロフェッショナルコーチ、1級ファイナンシャル・プランニング技能士(国家資格)、CFPⓇ。デール・カーネギー・トレーニング・ジャパン公認トレーナー(デール・カーネギー・コース、プレゼンテーション、リーダーシップ)を取得。

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